劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

 ※ネタバレあり

 幾原邦彦の弟子筋にあたる古川知宏監督作品。劇場にて視聴。テレビシリーズ、ロンドロンドロンド視聴済み。

 ストーリーとしてはテレビシリーズでスタァライトをやり遂げ目標を失った主人公の目標の喪失と再生、卒業し次のステージへと向かうキャラクターたちのこれまでへの決別と出発を描いたものとなる。

 なるのだが。

 テレビシリーズでも同じ感想を書いたのだけれど、人物の心理の変化を論理的に描く気が微塵もない。これは彼女らを取り巻く外部がほとんど描かれないという点にも起因しているのだろうが、問題は少女の中で発生し、思いっきり叫んで解決する。仲間とのやりとりで変化する、というのも小さく半ば自己解決に近い。

 そういった点では現代的な構造をしていて、ストーリーとしては王道かつ意外とこぢんまりとしている。

 異様なのは演出のほうで、まさしくバロック。冒頭に登場するトマトは王冠の髪飾りと同じ記号であり、作中で登場する小物と比喩表現として登場する物体が同じものを象徴しているというのはこの作品に頻出する表現であり(星摘みの塔=東京タワーなど)、メタレベルの異なる類似モチーフの異様なまでの反復とそれによるメタレベルの越境こそがこの作品といっても過言ではない。

 トマトは潰れ汁が零れる。これは目標を失った主人公の象徴だが、赤い汁は中盤で血液としてレヴューの場面で登場する。ここでは比喩表現がレビューへと越境している。テレビシリーズ終盤でレビューに作中世界で星摘みの塔を象徴する東京タワーが乱入したように、作中の世界、レビュー、比喩表現、(我々の)現実で同じ意味を持つ象徴が何度も反復し、やがて越境する。

 それがもたらすのは舞台少女とレビュー、舞台の物語の同一化だ。ナレーションで提示される「普通の少女としての幸せは得られない」さえ、個人としての少女と舞台少女が越境し、同一化する。目標を失った愛城華恋は彼女の生きる世界ではなくレビューによって救済される。(これは一般的な物語では忌避されることだ)

 演出が異なるメタレベルを混同させ、通常の物語なら忌避される正道の救済を放り投げて彼女たちは、舞台なしには成立しない存在として生きる。

 見た後の感想として、(キャラクターへの思い入れを置いておけば)演出家の業が印象に残る作品でもあった。