音楽/東京事変

 初期の東京事変といえば、卓越したセンスと演出能力を備えたフロントマンに最高のプレイヤーが集まり技巧の限りを尽くして演奏する、椎名林檎のドリームバンドといった塩梅だった。

 それは、技巧的には高い水準にあっても人間の集まりとしてのバンドとしては、まだ歩き出したばかりの赤子だったのではないだろうか。強い初期衝動を持つ新しい存在でありながら、技術面では完成されている。そのアンバランスな危うさが初期東京事変の、他には代えがたい魅力だったように思う。

 休止期間を挟んでかれこれ18年も続いている東京事変の最新アルバムは、バンドとしての円熟ぶりが音に現れていた。初期の騒々しさは鳴りを潜めたが、歳を経て丸くなったというよりもバンドとしてお互いの演奏を知り尽くしたが故の大げさも不足もないアンサンブルが成立している。バンドは一般に問題なく続くことが難しい存在だ。ここまで円熟するまで続いたことは幸運というほかない。(一般のバンドとは成り立ちが異なるという相違点はあるが)

 歌詞世界に注目すると、政治的な問題にも触れるような内容も多い。ただ、何かの思想を応援する、あるいは主張するというものではなく、あくまでも大衆的な感覚を拾って歌っている。椎名林檎の書く歌詞は歳を重ねるにつれてターゲットの年齢もあがっているが、常に大衆的で庶民的な感覚の肯定というポップスの王道を進んでいる。

 spotifyには東京事変メンバーがアルバム各曲を解説するLinerVoiceというコンテンツがあるが、そこではアルバム一曲目の「孔雀」について、椎名林檎がソロで2019年に発表したアルバム「三毒史」との関連を語っていた。三毒とは仏教における克服すべき悪の根源であり、孔雀明王は三毒を喰らう明王である。読経のサンプリングや歌詞への引用も、意図は同様だろう。

 ポップミュージックの機能とは大衆を宥めることにある。三毒とは貪欲・怒り・愚かさを指し、大衆性はこの三毒に翻弄される存在だ。かつての日本仏教が担った役割と現代のポップスが近しいのはいうまでもない。そんな大衆音楽の役割に対する自覚的なあり方はついに、ポップスとしての浸透力を持ったまま仏教思想へと接近するに至ったのだ。

 椎名林檎はデビュー当時から今に至るまで視点を変えていない。大衆の愛撫、手を替え品を替え、いつもそこを目指している。