シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

ネタバレあり

 多くのロボットアニメでは、戦艦内や小さな街での生活が描かれる。それはロボットとは人物の精神を表現するための身体を極限まで延長したものであり、その精神の根底を支えるものとして日常という人間の根底を成すものを置くことで、戦いと対比しつつ精神的な拠り所として表現するものの基軸となるからだ。現代社会で生活している我々は、自らを支えているものを肯定的に描かれることに快楽を覚えるというのもあるだろう。

 それに比べて、テレビシリーズのエヴァンゲリオンにおける生活は荒廃している。物々しい第三線東京とネルフ本部、ミサトの爛れた生活、失われていく日常。学校の友人やネルフの職員たちといった他者との交流は失われていき、最後にはアスカただひとりしか残らなかった。

 この映画において、例えばガンダムにおける艦内での生活のような、圧縮され戯画化された日常の場がついに登場する。人間は生活不能な大地の中のわずかな領域においてようやく生活の物語が成立するという点で、いかにエヴァという作品の、日常との相容れなさが浮き彫りになる。

 その結果のテレビシリーズは、世界の命運という舞台装置と私小説的な個人の内面の物語の中間がすっぽ抜けた世界系だった。どうしてそうなるのか。それは、碇シンジが精神の有り様を体現する強化された身体であるエヴァンゲリオンが単純なロボットではないからだ。

 ロボットとは、ある意味ではサイボーグだ。肉体の能力を極限まで拡大し、世界に対して干渉する能力を高めたものだ。問題は、その身体に他人の意思が介入している点だ。つまり、碇ユイとゲンドウが、暴走し、あるいは強制停止させる。子供が搭乗するロボットアニメの多くは、成長するにつれ社会に対して影響力を持ち始め自身の能力をどう使うか悩む子供の、社会的能力を物理的能力に置き換えたものである。その社会に対して関わりを持ち始めた子供の行動を親が支配しては、よい結果など望めない。それを克服するためのものが親の所有物でない個人としての実感であり、例えばかつてのアスカであり、そして今回の小さな集落での生活だった。

 それも容易なことではなかった。綾波(のそっくりさん)というフィルターを介し時間をかけてようやく成し得たものだった。

 

 でもラストシーンがよくわかんないんだよなぁ。うーむ。