Fate/Grand Order -turas realta- 8・9

Fate/Grand Order-turas realta-(8) (週刊少年マガジンコミックス)

Fate/Grand Order-turas realta-(9) (講談社コミックス)

Fate/Grand Order-turas realta-(9) (講談社コミックス)

 

 

 オケアノスの終わり~北米の始まり。

 最大の見どころといえばやはり助けた人に恨み節をいわれるくだりか。少年漫画の文法なのでフォローして主人公はケアされたが、真面目に考えると彼のその後の人生が生き残ってよかったものと思えるかは難しい。

 

 個人的に最近よく観測するのだけれど、キャラクターの苦悩を消費する文化が我々にはある。以前からそうだったのかというと自信はないのだけれど、例えば進撃の巨人のライナーや呪術廻戦の虎杖悠仁が苦悩するところを喜ぶ我々がいる。

 どうして悲劇を消費するのだろうか。物語の意味をより根源的な部分で探ると娯楽である以前に、それはカオスでアナーキーな現実のパターン化による理解といえる。そしてそのパターンを他者と交換することで、起こりうる危機を予測したり解決の方法を予め習得しておくのだ。

 他人の悲劇を知っておくことは危機予測という点で有益であり、我々はそれを快楽に感じることで知識を集積する性質が生得的にある。

 それにしてもこれらの悲劇は、正しい行動の結末としての、解のない救われようのない苦しみとして作られている。このマンガにしても主人公は救った人がその後どうなったか知る術はなく、棘は残ったままだろう。

 前述の理屈に沿えば、巨大で(大きなリスクだ)共感できる(自分にも起こりうるリスクのほうが重要だ)悲劇を我々は嗜好している。こういった物語を面白いと思う我々はどこかで正しい行動によって生じる悲劇を恐れているのかも知れない。であるならばこれからの(悲劇を直視する)物語は、個人と社会正義の狭間という視点に立脚され、その果てにより強く行動者の責任を問う形に進化するのではないかと思う。

 彼が行動の結果として、危険で苦しい回り道を選ぶように。