コードギアス 復活のルルーシュ

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 キャラクターの重要度が高い作品のファンムービーなので、これ単体でどうというより旧来のファンが見たかったものをお出しされた作品。まぁ、それをちゃんとやれるかというと失敗することも多いので、きっちりやれるのも制作の手腕なのだ。

 

 コードギアスは過剰な作品だ。

 ロボット、ギアス、Cの世界、ブリタニアの支配体制とエリア11のテロリスト、学園、ラブコメ、兄弟愛、地上戦から空中戦艦、キャラクターたちの性格。どの要素も盛りすぎで、大げさで、行き過ぎている。

 展開は過激だし、キャラクターに比重が大きいながらそのキャラクターが大きな展開を引き起こすので毀誉褒貶が激しい。こうなってしまったら制作側も安易にキャラクターを動かせなくなる。キャラクターのファンが不快になる要素を極限まで削り落としているため物語において新しい動きや問いはない。そういった意味でファンムービー的要素が極めて強い。

 もし「反逆のルルーシュ」の、物語的新しさのある続きを作るなら、ナナリーの罪なんていい題材かもしれない。この辺りも丹念にケアしてかつ触れないようにしていたが、ナナリーはおそらくはルルーシュやシャルルをも上回りかねない大量殺戮者だ。新しい世界で彼女が何らかの罰を受けたり、自責から自ら罰を受けることだってあり得たかも知れない。

 倫理的視点に立つと罰を受けるべき人物はナナリー以外にも無数にいる。虐殺を実行したジェレミア、指揮したコーネリアやその副官ギルフォード、混乱の元凶となる力を撒いたC.C.などなど。もちろんコードギアスはそういった視点の、倫理的罰をあえて排除している。

 もちろんこれはキャラクターを魅せるための措置で、世界観や倫理観の優先度は低い。そもそも作中で行われる善悪の議論はキャラクターを争わせる舞台であって、その内容が作品のテーマではないのだ。

 だから、キャラクターを優先して物語のテーマ的な新しさを押し出さなかったのは正しい。コードギアスとは世界を舞台にキャラクターが大見得を切る劇なのだ。(ナリタ攻防戦をベースに戦いが様式化したこと、定型的な展開ややり取りもそうだろう)

 創作論としてこの割り切りは尊敬すべき部分だと思う。フィクションにおける道徳の議論は、それ自体が目的化してしまいがちだけれど、(そして消費者も注目しがちだけれど)どこまでいっても表現のための手段の一部でしかない。正義と悪が、大量虐殺や支配が、キャラクターの心情ドラマを展開するためのただの装置であって良いのが創作の性質であり、フィクションとはすべからく暴力である所以のひとつでもあると思う。