社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

 

 再読するので内容メモ。

 個人の感想も混じっているので気になったら買おう。(アフィではないので安心だ)

 カッコ書きは本文の引用、中丸から始まるのは要約と私見だ。こんなまとめで内容が正確に分かるわけではないので買おう。(呪文)

 

 はじめに

「わたしは本書で、人間には、(必然的に独善に至る)正義へのこだわりが一般的な本性として備わっていることを示したい。つまりそれは、進化によって設計された特徴のひとつであって、本来は客観的かつ理性的であるはずの私たちの心に混入した、異物や誤りなどではない。」

第1部 まず直感、それから戦略的な思考

「心は〈乗り手〉と〈象〉に分かれる。〈乗り手〉の仕事は〈象〉に仕えることだ」

第1章 道徳の起源

・道徳は生まれ(遺伝子)と育ち(環境)のどちらかによって決まると考えられていたが、合理性によって獲得されるという見方が現れた。

・子供は道徳的な規則と慣習的な規則を区別している。子供には道徳を認知するセンサーが備わっている。

「人類学者が「清浄」「汚染」と呼ぶものに関する規則の欠如ほど、欧米における道徳秩序の希薄化を明白に示す現象はない。」

「道徳とは危害に関するものだとするテュリエルの見解が正しいのなら、なぜ非西欧文明のもとでは、危害とは何の関係もなさそうな実践様式が、道徳として扱われるのだろうか?」

アメリカにおいてすら(つまりおそらくはすべての国で)社会秩序とは道徳秩序なのだ。

・道徳的な問題を問う調査では、回答者は道徳的に問題があると答えた場合、被害を受ける犠牲者がいるからだと答える。この質問の状況ではそういった犠牲者は存在しないと思いますが、などと指摘されると、ありもしない犠牲者をでっち上げて正しさを主張する。

 まず直感的な道徳的判断があって、それから理由を探している。

「「道徳的な思考は、多くの場合情動の召使いと化している」」

第2章 理性の尻尾を振る直感的な犬

プラトンは、「たとえ哲学者だけがそれに値するのだとしても、理性が主人たるべきだ」と言った。ヒュームは、「理性は情熱の召使いたるべきだ」と主張した。そしてジェファーソンは、「理性と感情は、帝国を東西に分割して統治したローマ皇帝のように、おのおのが独立した共同支配者であり、そうあるべきだ」という第三のオプションを提示した。」

ダーウィンは先天的に道徳が備えられていると考えていた。(この考えは人種や民族、性別によって道徳観が異なる可能性も含む)欧米の大学で流行した政治的な急進主義では、性別によって異なる欲望や能力を持つとするなら男女平等の妨げになるので間違っているに違いないと考えられた。

「人権は、ピタゴラスの定理に寄り添ってプラトン主義者に発見されるのを待っている数学的な真理であるかのごとく宇宙のどこかに実在するがゆえに、人はそれを信じているのだろうか? それとも人は、拷問の話を聞いて嫌悪や同情を感じるがために、これらの感情の正当化に役立つ、普遍的な権利のストーリーをつむぎ出すのか?」

「アントニオ・ダマシオの著書『デカルトの誤り――情動、理性、人間の脳』を読んだ。ダマシオは、脳の特定の部位、すなわち前頭前皮質腹内側部に損傷を受けた患者が示す態度に、異常なパターンが見られることに気づいた。彼らの情動は、ほぼゼロのレベルに落ち、とても愉快な場面やぞっとする場面の写真を見ても何も感じなかった。しかし何が正しく何が間違っているかに対する認識は失っておらず、IQも落ちていなかった。さらに言えば、コールバーグが作成した道徳思考のテストでもすぐれた成績を残している。ところが、私生活や仕事での判断になると、彼らは何も決めれなかったり、無分別な判断を下したりした。そして家族や自分の雇用主を遠ざけ、生活はまったく混乱していた。」

「主人(情熱)が死ねば、召使い(理性)には領地を運営していく能力も、その意思もない。」

第3章 〈象〉の支配

「ザイアンスは画期的な論文で、「感情」を最初の過程としてとらえる二重プロセスモデルを採用するよう心理学者に強く勧めている。感情を優位として見なす理由は、それが最初に生じるからであり(知覚の一部であって、極端にすばやい)、また、より強力だからだ(動機づけに強く結びつき、したがって行動に大きな影響を及ぼす)。」

fMRIを使った研究で、不道徳なものを見れば即座に情動の処理を行う脳の領域が活性化する。この脳の活動は被験者が最終的に下す(情動ではなく思考も介する)道徳判断と相関関係がある。

第4章 私に清き一票を

「私たちは、他人の行動の責任を問うことに長け、また、他人が自分の行動の責任を問うなかで、実に巧みに生きていく。」

「テトロックは、「意識的な思考は、発見よりも、おもに説得のために遂行される」と結論し、さらに「わたしたちは自分自身をも説得しようとする」とつけ加える」

・人間はなるべく多くの人を自分の勢力圏に収めたいと思う。ここ一世紀のあいだ、心理学者は自分をポジティブにとらえる必要性を論じてきたが、何百万年ものあいだ小集団への帰属を認められることに生存がかかっていた人類は、それを生得的に可能にする本能、自分をよく思うよう他人に仕向ける能力が存在するはず。

・また自身の正当化と所属するグループを支持するものはたいてい信じ、これらの能力は自分自身の説得という能力と結びついている。

倫理学者は本の借りパクが他の学者に比べて多い。おそらく自己正当化能力が発達しているためだろう、とのこと。

・理性崇拝は妄想である。

第2部 道徳は危害と公正だけではない

「〈正義心〉は、六種類の味覚センサーをもつ舌だ」

第5章 奇妙〈WIRED〉な道徳を超えて

・どうやら我々が知性や論理と呼んでいるものは自己弁護能力であるらしい。

・著者はインドに研究のため移り住んでから社会保守主義が馬鹿げたものと思えなくなった。“我々”は所属する小集団に帰属するために情動を保有している。

・人間は多様な道徳観を元来有しているが、成長に伴って一部だけが発達する。

第6章 〈正義心〉の味覚受容器

・著者は進化心理学者がいうところの適応課題(生存し遺伝子を残す上で問題となること)と多くの文化に様々な形で見いだされる美徳を結びつけることで、遺伝的に受け継がれ機能せずとも普遍的に保有している“道徳基盤”を見つけ出そうとした。

・適応課題は主に5つ。「子供を保護する〈ケア/危害〉」「相互依存の恩恵を得るために、親族以外と協力関係を結ぶ〈公正/欺瞞〉」「他の連合体に対抗するために自分たちの連合体を形成する〈忠誠/背信〉」「階層制のもとで自らの地位を確保する〈権威/転覆〉」「人々が密集すると急速に伝播する病原体や寄生体から自分や親族を守る〈神聖/堕落〉」

・ケア/危害について子供の手術が例示されている。全身麻酔をかけられた子供にメスが当てられているとき、功利主義的観点からすると痛みがないまま病気を取り除かれるので喜ばしく思うべきだが、実際には苦痛を感じる。(理性では痛みがないと知っていても情動的には暴力と感じる)

・その子供の頭を撫でる看護婦と仕事に専念する看護婦がいたとして、功利主義者やカント主義者は子供の頭を撫でる特別視をしないし、仕事に集中せず感情のままに振る舞ってさえ見える。ヒューム主義者ならケアの権化であり素晴らしいと感じるだろう。

第7章 政治の道徳基盤

・「可愛らしさ」はケアという道徳を飛び覚ますトリガーとなる。このトリガーは親が子育てをする際に役立つ。ケア/危害という道徳観の有益さは証明できるが、この道徳観を呼び覚ます現在の引き金(カレント・トリガー)は現代では多様かつ広範に及んでいる。

・〈公正/欺瞞〉について。遺伝子は必ずそれ自身のコピーを広く伝播させるよう動物に影響を及ぼす利己性を有している。ロバート・トリヴァースの「互恵的利他主義」の理論によって説明される。左派は公正を平等として捉える場合が多いが、右派は比例配分として考える。

「「権威序列に従う人々は、専制君主とそれに恐れを抱く被支配者の関係より、親子関係に近いつながりを、互いのあいだで想定している」」

第8章 保守主義者の優位

共和党は5つの道徳基盤すべてに訴えかけることができたが、民主党は犠牲者を救済し抑圧された人々の権利を勝ち取ることのみに終始して、ケア基盤と平等としての公正基盤にのみ訴えた。

 ・見知らぬ者同士が平和共存できる社会を構築する2つのアプローチを紹介している。ジョン・スチュアート・ミルによる、「相互利益のために結ばれた社会契約」では、社会の構成員の意思に反して権力を行使できる正当な唯一の目的は、他の構成員に及ぶ危害の防止としている。(リベラルな人々の、ケアと公正を重視する世界観だ。)

 もうひとつのものとしてエミール・デュルケームの提起を紹介している。こちらは集団の協力関係を破壊するフリーライダーを罰する相互監視を含む協力関係を社会としている。デュルケーム的社会では人々は多数の組織(家族、会社など)に所属していることを重んじ、一般的に階層的、懲罰的、宗教的である。リベラルにとってそのような社会は闘争の対象であっても尊重すべきものではない。(もっとも、この機能を完全に失った国家は衰退と分裂を起こすだろうと著者は書いている。)

・著者が小論をオンライン科学サロンに公開した際の反応も記載されている。保守主義をもうひとつの政治思想としてとらえることを拒絶したリベラル、共和党支持者は思いやりの欠けたナルシストだという非難。沿岸警備隊を退職した隊員が新たなリベラルな職場を「大きな目標を失い個人主義と内輪もめが猖獗きわめる混乱した職場で、何一つ達成できないのではと思える」と表現したのは内容に対して正確な理解と有益な感想かなぁと。(社会は基本的に生存のために有益だったために生じたものであり、デュルケーム的相互監視はそこから生じている。高い目標とは古来はサバイバルだった。現代にそれが適用できるのかといえばコロナ禍を見るにイエスで、実際にリベラルな国家ほど混乱は根深い)

・公正という道徳観念に対して存在するふたつの考え、平等と比例配分は同じ認知モジュールに由来し、互恵的利他主義に関係しているのだろうか。著者は平等とは相互依存と交換より、自由と抑圧の道徳基盤によるものと考え新たに〈自由/抑圧〉基盤を設けた。

「ヒトは階層性に向かう生得的な傾向を持っているが、私たちの祖先は、ここ数百万年のいずれかの時点で〈政治的な変化〉を遂げ、グループを支配しようとする、最優位雄の候補を集団で統制し、罰し、殺すことで平等主義者として生きるようになった」

・この逆支配には言語によるゴシップや武器による暴力の均衡化も関係しているとしている。人類学者クリストファー・ベームは、この逆支配によってグループの規範を尊重しないもの、いばり屋のごとく振る舞うものは避けられ、追放され、殺されることで遺伝子プールから除去され、人類の「自己家畜化」が進んだとしている。

・この自由/抑圧基盤は権威基盤と明らかに対立する側面がある。権威基盤とは尊敬などを元に有益な階層性を構築するためのものだ。(リーダーが不在の社会は平等だが有益ではないだろう)

「リベラルにとっての社会の敵とは権力を濫用しながら、それでも他の人々に自分たちを「尊敬する」よう要求する者のことだ。リベラルの権威とは、社会を統合し、その敵を抑制する何かを起こすことによって、社会の尊敬を勝ち取る者や制度を指す。」

・上記は個人的によく見れていなかった要素で、リベラルの権威基盤に基づく目標とは自身や自身の所属する勢力の尊敬を勝ち取ることにあるようだ。

・抑圧に対する憎悪は、左右どちらの陣営にも認められる。ケア基盤に依存するリベラルにとって、自由基盤は弱者に資するものと捉えられ、ときに権利平等を通り越し資本主義システムの元では実現不可な結果平等を追い求める。保守主義者はもっと郷党的な考えで、自由基盤と圧政に対する憎悪は経済保守主義の信条を支える源泉となっている。過保護のための高税、抑圧的な規制、国際連合や国際条約によって自分や企業、国家の自由を奪うなというものである。

・リベラルは因果応報の持つネガティブな側面(当然の報い)を、報いは危害を引き起こしケア基盤に反するため不快に思う傾向がある。

・リベラルはケア、自由、公正の3つを重んじるが、思いやりや抑圧への抵抗と矛盾する場合、比例配分としての公正を進んで放棄する。保守主義者は6つの道徳基盤すべてに依拠するが、誰かが傷ついてもケア基盤を犠牲にそれ以外の道徳目標を達成しようとする傾向がある。

第3部 道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする

「私たちの90%はチンパンジーで、10%はミツバチだ」

第9章 私たちはなぜ集団を志向するのか?

・リベラルだった著者は、9.11の際に衝動に駆られてアメリカ国旗が描かれたステッカーを車に貼りたくなったと白状している。そんなスイッチが自分にあるとは考えもしなかったと。

・集団に属する方が生存に有利なので集団に対する欲求を持つよう進化したが、同時に個人としてはリスクを冒したり大きなコストを賭けることなく利益を得るフリーライダーのほうが有利であり、こちらの形質もまた獲得した。(マルチレベル選択

・著者はヒトのミツバチのような協力しようとする意思が集団選択によって説明できるものだとしている。デュルケームのいう、「人々は、それとは別の一連の強い情動を経験する能力を持っている」と主張した。もし、個人の利益以外の、集団の一部として振る舞う社会感情が遺伝的に存在しているなら、それは集団主義の源泉なのかもしれない。(余談だけれど利己主義を脱する方法で自然の偉大さを感じるというものが例示されていて、保守的な登山家を思い出した)

・集団との関連でファシズムにも触れている。ファシズムとは集団志向を極端に強固にしたものだが、さもすれば集団スポーツにファシズムを見出すような見解が飛び出す。ここではファシズムとは集団志向を利用して階層性を強化し、リーダーという神に国民を結びつけるものとしている。

・(デュルケーム的な)競い合う複数の集団が存在することを著者は肯定的に見ている。集団主義は必ず独裁というわけでもないし、(それは集団主義をリーダーの崇拝へ用いた場合の話だ)そもそも富の増大はケアの能力を向上させる。健全な集団志向とは多層の階層の複数の集団が国家の内部で競い合うことが必要だと社会関係資本の研究で述べられているらしい。

 逆にデュルケーム度の低い社会では、生きる意味を求めようとあがくため(属するものを失うと生きる意味そのものがあやふやになるというのは実感があるところだ)雄弁なリーダーの調子の良い話に乗せられやすくなる。そしてその手のリーダーは、「利己的なつかの間の快楽」を捨て去って、人間としての価値を体現する「純粋にスピリチュアルな存在」を目指して自分のあとについてくるよう人々を駆り立てる、と。

第11章 宗教はチームスポーツだ

「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」

・9.11の折、リベラルな科学者の何人かはイスラム教のみならず、仏教以外のすべての宗教を攻撃し始めた。(その中には「利己的な遺伝子」で知られるリチャード・ドーキンスも含まれる)批判者たちは宗教を、人間のシステムに入り込んだそれ自身に利己的なウイルスのようなものだとする。

・宗教は集団主義の一種であり、おおむね良いように作用するとしている。宗教信奉者は基本的にはより隣人であり、困っている人に時間と金銭を費やすことを惜しまない。(個人的には天理教徒がこれに当てはまり体感として納得する部分ではある)しかし宗教は内集団を美化しうると同時に外集団を敵対視する道徳マトリクスの共犯になりやすい。我々は集団に仕える以上に利己的なチンパンジーの要素を抱えているが、宗教共同体で暮らしていれば衝動が集団に織り込まれ抑制されるだろう。

 ※保守主義者はすべての道徳基盤を認識しているので本書の内容は受け入れやすく、どちらかといえば個人主義啓蒙主義リベラリズムに向けられた内容なので再確認しておくと、集団というものの有益さについては何度か説明され、その前提に立っている。

「宗教を超自然的な行為者に対する一連の信念としてとらえるのなら、誤用は避けられない。(略)しかし宗教に対して(帰属に焦点を置く)デュルケームの、また、道徳に対して(マルチレベル選択を含めた)ダーウィンのアプローチを採用すれば、全体像は違って見えてくるはずだ」

第12章 もっと建設的な議論ができないものか?

 「第8章では、アメリカの文化戦争を三基盤道徳と六基盤道徳の戦いとして描いた。しかしそもそも人は、何に基づいてこれら二つのうちの一つを選択するのだろうか?」

・現実にはイデオロギーは多様だ。道徳基盤理論の長所は、6つの基盤の組み合わせと程度により無数の組み合わせを考慮できる点だ。

マルクス以後の政治理論家は、人は自己の利益を追求するためにイデオロギーを選択するという考え方を前提にしてきたが、貧富が大きく入れ替わる現代では結びつきは弱く、また利己心は政治的傾向を予測する指標として役に立たないことが判明している。

・20世紀後半の、人間は両親やテレビ番組のイデオロギーを吸収するという白紙理論は双子の大量のデータを分析することで、遺伝子は政治的な態度に関して1/3から半分を説明する。家庭環境は遺伝子より関係が小さい。これらは正得性に起因する。正得性は生まれ持った草稿であり、経験によって改定される。

・道徳マトリクスを形成するステップを3つに分けている。1つ、遺伝子が脳を作る。リベラル、保守主義者では脅威や恐怖に対する遺伝子が異なることはわかっている。2つ、様々な特徴が子どもを異なる経路へと導く。成長の過程で出会った環境と生来の気質が衝突して、「適応性格」と呼ばれるものが生じ、人格の一部と化す。3つ、人は人生を物語化し、道徳観を導き出す。必ずしも真実である必要はなく、単純化、理想化されたものである。

・相変わらずリベラルの悪口が書かれている。いや、冗談。保守主義者は女性、肉体労働者、アフリカ系アメリカ人、同性愛者の開放のいくつかに反対したとしても、東欧諸国における共産主義の抑圧からの開放には拍手を送る。これは基本的に保守主義もケアを認識しているが、権威や神聖といった道徳基盤が優先されるのだろう。(ここは実際のところ、レトリックだけで説得可能な領分ではあると思う)

 リベラルと保守主義者が互いをどれくらい正しく理解しているのか調査した結果、中道と保守主義者は、典型的な別の政治思想のステレオタイプを演じても的確だったが、リベラルを自称する人は精度が落ちた。

「リベラルは、「レーガンは〈忠誠〉〈権威〉〈神聖〉基盤が持つポジティブな価値を追求している」という点に気づかないと、「共和党支持者は〈ケア〉と〈公正〉基盤にはまったく価値を認めていない」と結論したくなるであろう。」

・歴史家ジェリー・ミューラーはまず保守主義とオーソドキシーを分離するところから始めている。保守主義=集団と規則=理性のみで理論を組み立て啓蒙することの抑止、といった主張だろうか。そうして社会に生成される個人的な絆や相互依存、それに由来する信用などを道徳資本と呼んでいる。

・道徳資本は人類が抱える大きな問題のひとつ、フリーライダーの抑止に大きな役割を果たす。リベラルの改革が度々裏目に出るのもこの道徳資本を知らずのうちに食いつぶすからだと見ている。(当時としては)リベラルな共産主義革命が共同体を破壊し独裁者や汚職というフリーライダーを増進させた点を見るといい。

・リベラル的政策がいかに道徳資本を破壊したかが例示されているが、これは国家や社会が〈権威〉〈忠誠〉〈神聖〉によって形成されたものであり、それらを無視した個人支援政策は孤立と相互不信、フリーライダーの増長を招くということだろう。リベラリズムは有益な部分もあるが、あくまでもカウンターカルチャーの一環としてだろうか。巣を壊して助けたミツバチは生きていけない。

「道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。それは、自陣営があらゆる戦いに勝利することに世界の運命がかかっているかのごとく争うイデオロギー集団に、私たちを結びつけてしまう。そして、どの集団も、とても重要なことを言わんとしている善き人々によって構成されるという事実を、私たちの目から覆い隠してしまうのだ。」

 

 

 

メモ

・道徳資本という定義はもうちょっと洗練できるものではないかとも思う。社会関係資本との違いとか。この共同体から生じる資本は、例えば都市では都市共同体という巨大共同体によって道徳資本が形成され、家族共同体の代用として都市内の地域などが存在していると見れるけれど、(東京の中の秋葉原、というのも都市ならではの共同体だろうし)実際の在住者にはそれが地方にはない共同体と見えているのかなど気になる。

イデオロギープラトン的真理と捉えている人々に対してはそもそも相対化の道を開くことの困難さを感じるため現実への適用には根本的なハードルがあるのではとも思う。