百日紅~Miss HOKUSAI~

nico.ms

 

 dアニメストアにあったので見た。

 葛飾北斎の娘、お栄を主人公にした映画。

 主人公といっても父・北斎や弟子も結構出てくるし、彼女自身のドラマが通底して流れているもののそれを大きくフォーカスしているわけではなく、彼らの生活や江戸の風俗、仕事など生活そのものを描いている。

 原作はマンガらしいけれど未読なのでわからない。ただ、一般的な知識の上での北斎は絵に生涯をかけた人物であり、その助手であるお栄も生涯描いていたはずなのだが、とくに北斎が絵を描いているシーンが少なくて、(観察も重要であるにしても)たいていはぼんやりしており、ときどき昼行灯のようにトラブルを解決したりもする。

 映っていないところでは親子でひたすら絵を書き続けているのかも知れないけれど、描かれているキャラクターの人物像は実生活ありきで、それこそ「画狂」葛飾北斎の姿はない。お栄も感情の最終的なアウトプットは絵なのだが、ドラマ自体は日々の暮らしの中で生じている。

 職業や芸術に人生のすべてを捧げていない、普通の人にわかりやすい等身大の人物的キャラクター造形は作品全体の落ち着いたトーンを作っているし、終盤の展開はこの温度感がなければもっと、何でも絵を基準に語ってしまう絵描きの業と捉えられかねないものになっていたのかも知れない。

 というわけで、丁寧な日常描写の映画だった。落ち着いた作品だし、ありふれた言い回しをすれば誰にもである日常生活を描いた作品で、クオリティは申し分なく高いので(今更だけれど、原恵一作品だし)わりと誰でも楽しめるんじゃないだろうか。

 

 

 

 フィクションに用いられる「丁寧な日常描写」という慣用句の日常描写とはなんだろうか。

 この慣用句、googleでそのまま検索してみると、国産作品にばかり使われている。褒めるところがないので使われているのでなければ、それは外国産の日常を丁寧に描いた作品には違った慣用句が用いられているのだろう。(彼らの暮らしぶりが伺える、などだろうか)

 では日常とはなんだろうか。作品の日常を我々の実生活の日常、朝はバタバタして仕事に出かけ、帰ってきたらぼーっとテレビを見ながら夕食、ダラダラとスマホを見ていたら寝る時間になっていた。例えが俗っぽいけれど、これは日常生活であっても日常描写とは異なる。

 そもそも、(基本的に)ドラマを描くことを目指す創作物の基盤となる日常が我々の日常そのものと同じであるはずがない。ドラマの盛り上がりを目指すための下地、日々の暮らしとは、出来事に対する反応だ。

 シナリオ教本に書かれているとおり、視聴者はキャラクターの反応でその人物像を知る。振る舞いや言動、表情の動き、その後の機微。(この映画で例えるなら、ある出来事のあとにお栄が北斎に強く当たる部分がわかりやすい)

 つまり丁寧な日常描写とはキャラクターの出来事に対する反応が、大げさでなく手間を惜しまず描写され、それが視聴者も共感できる(これが外国作品にはこの慣用句が用いられない理由だろう)感情の機微と反応であるということなのだろう。